部の歴史

HISTORY部の歴史

1946年夏、剣道からフェンシングへ

終戦直後、GHQの政策で剣道は軍国主義につながるとして禁止されていた。

そんな中、剣道にいそしんでいた学生の間から、思い切ってフェンシングを取り入れようとの声が上がり、

フェンシング部創設に奔走する。

その甲斐あって1946年夏、稲門剣友会総会にて部創設が認められ、早稲田大学フェンシング部が誕生した。

創部から1950年代

森寅雄

早稲田をはじめ日本の大学フェンシングの発展には欠かすことのできない人がいる。森寅雄さんがその人。

森さんは、幕末の北辰一刀流玄武館四天王の一人であった森要蔵を曾祖父に持つ剣の達人で、日本の剣道界を牽引する人物であったが、1937年にアメリカに渡り、フェンシングの道も究めた。

わずか6カ月の練習で全米トップに上り詰め、タイガー・モリと呼ばれる。その後、米国フェンシングオリンピックチームのコーチも務め、2013年には日本人として唯一の国際フェンシング連盟の殿堂入りを果たした伝説の人。

当時、森寅雄さんには早稲田フェンシング部も多くのことを学んだ。その後、各大学にもフェンシング部ができリーグも結成される。少しずつ新入部員も増えて活動が活発化し、創部から7年後の1953年、ついにリーグ戦で初優勝、同年全日本選手権エペの団体戦をも制し、輝かしい戦績が部の歴史に刻まれていく。

1940 年台フォトアルバム

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1960年代

1964年東京オリンピックポスター

第二次大戦中の苦難の時期を経て、終戦から復興期に入り、学生スポーツ熱が高まる時代へと向かう。

1957年のユニバーシアード・パリ大会で電気フルーレが採用され、川名選手が初めて使用したが、国内でも1960年には電気エペが、1961年には電気フルーレがリーグ戦で採用され、用具も大きく進化していく。

戦後復興の象徴でもあった1964年の東京オリンピックでは、早稲田大学記念会堂がフェンシング会場となり、フェンシングの認知度も一段と上がった。

1960 年台フォトアルバム

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1970年代

1970大阪万博

1970年代は大阪で万国博覧会が開催され高度経済成長期へと向かう反面、大学紛争、連合赤軍事件や第四次中東戦争が起きるなど波乱の年代であった。

こうした中、1965年に日大との入れ替え戦に敗れ2部転落となるが、1970年1部復帰と同時に新しい闘いが始まり、経験者不足、少ない部員数にもかかわらず1部リーグ定着を目標に奮戦する。10年間で6回もの入れ替え戦を経験し、メンタル的にも最も厳しい時期でもあった。

しかし、個人戦では1974年、全日本学生男子サーブルで宮原辰朗が、1977年には全日本学生男子エペで張守栄が優勝するなど、光る戦績も残した。

1970 年台フォトアルバム

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1980年代

1970大阪万博

1981年には専用道場が完成。練習の場は、それまでの体育局4階から西門そばに新設された体育館の地下1階へと移る。

空調、シャワー、浴室なども完備された素晴らしい環境を得、練習に一層熱が入る。

この頃より世界へ羽ばたく部員が続出、女子部員も増え部員数が一挙に増加した。1987年、鈴村元宏が世界選手権エペに出場、1988年には出野晴信が初めてソウルオリンピック・フルーレに出場した。

1980 年台フォトアルバム

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1990年代

1970大阪万博

1990年代には続々と世界レベルの選手が登場した。1988年ソウルオリンピック出場を果たした出野晴信に続き、1996年のアトランタオリンピックには田中奈々絵が女子エペで初めて出場するなど、女子も世界で通用するレベルに成長した。

出野は1990年、1991年と全日本選手権フルーレ個人を連覇し、名実ともに早稲田の強さを証明した。また、この年代では1990年リーグ戦に電気サーブル登場、1993年リーグ戦で種目別入替戦導入、1995年にはリーグ戦が3人制となるルール変更が行われた。

1990 年台フォトアルバム

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2000年代

1970大阪万博

かつては部員のほとんどが高校時代はフェンシング未経験、大学で初めて剣を握りながらも研鑽を積み強豪と互角に戦ってきたが、このころには高校で素晴らしい戦績を上げた新入部員も増え、ますます戦力、気力ともに充実した時期を迎える。

2001年の全日本学生女子エペ団体優勝を皮切りに女子が大健闘、2002年、2005年にはフルーレでも全日本学生王座も手中にする。男子も2007年全日本/全日本学生エペ団体優勝、翌年も全日本学生エペ2連覇を果たし、2009年には全日本学生男子フルーレ団体優勝も手中にした。

個人では桑崎佳恵、森友紀、松木瞳、坂俊甫などが、インカレ、ユニバーシアード、ワールドカップで活躍した。また、2008年の北京オリンピックで太田雄貴選手が日本初の銀メダルに輝き、フェンシングが一段と注目を浴びた。

2000 年台フォトアルバム

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2010年代

2011年に川名宏美監督が亡くなられたことは部にとっても大きな痛手だったが、中村立雄新監督のもと、一致団結して新しい歴史を歩み始める。2012年ロンドンオリンピックでフルーレ団体が銀メダルを獲得し、日本の強さを示したことにも刺激され、2015年には女子エペがリーグ戦、カンカレ、インカレ、学生王座、全日本と5冠という初の快挙を達成する。

この10年間には北川兄弟、荻原、平石、真所、鬼澤、間所、才藤、松山(恭)、加納、佐々木(陽)、安、駒場など、世界レベルで通用する才能のある選手が次々を登場して、黄金期を作り出している。2018年には中村監督から内田監督にバトンタッチし、世界を視野に入れた選手たちは、日々トレーニングに励んでいる。

2019年には初めてワールドカップ・エペで加納虹輝選手が優勝を果たし、2020年の東京オリンピックを目指して、部員のモチベーションは大きな盛り上がりを見せている。

1970大阪万博

2010 年台フォトアルバム

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2020年代〜現在(2022年1月)

2020年はコロナウイルスのパンデミックにより、ほぼすべての大会が中止となった。現役部員にとっては目標がなくなり、非常に残念な年となったが、部活動を継続し大きな試練を乗り越えた。

東京オリンピックも1年延期となり、先行き不透明な状況で、オリンピックを目指す選手にも大きな影響を与えた。そんな中、代表候補の松山恭助選手が全日本選手権フルーレ個人で二度目の優勝を飾った。

2021年になり、コロナの脅威が続く中で、松山恭助、加納虹輝の2名の選手が日本代表に選ばれた。稲光会員からのオリンピック出場は初で、部員やOBの期待は大きく膨らみ、75周年に大きな華を添えてくれました。

そして、2021年7月に開催された東京オリンピックでは、見事に男子団体フルーレ4位、男子団体エペ金メダルと、松山、加納両選手の活躍は私たちに大きな感動を与えてくれました。

また、2021年全日本選手権エペ個人では加納選手が優勝を飾り、現役部員も2021年のインカレではエペ個人で増田陽人選手が優勝、エペ団体でも優勝、さらに全日本エペ団体でも優勝し、エペの早稲田を印象付ける年となった。

2020年

全日本大会

フルーレ個人で松山恭介が2度目の優勝

2021年

東京オリンピック

エペ団体で金メダル、アンカーの加納虹輝が大活躍

フルーレ団体4位、キャプテンでアンカーの松山恭助が頑張った

全日本大会

エペ個人で加納虹輝が優勝

インカレ

エペ個人で増田陽人選手が優勝、エペ団体でも優勝、
さらに全日本エペ団体でも優勝し、エペの早稲田を印象付ける年となった